報われない恋だと知っていても

08.心が砕けてしまう前に

初めて会ったあの時、直感で、「彼は心に傷がある」、と思ったんだ。
吸い込まれそうなほど深い漆黒の瞳の奥は、無機質なガラス細工のようで僅かな震えがあった。
寂しそうで悲しそうで、儚いその色は静かに揺れていた。

どうしてだろう?
初めて会った人なのに・・・。
不思議なんだけど、「抱きしめてあげたい」と、思ったんだ。


ゆっくりと水瀬の唇から離れた紗夜は、切なげな表情で彼を見た。
2度目のキス・・・をしたというのに、やっぱり彼の顔は変わらない。相変わらずクール。
紗夜は何か言おうとして言葉を探す―。
けど、言葉を出す前に再び水瀬の唇が重なった。

今度は彼から。
それも軽く触れる程度のものではない。
感情を押し当てるような深いキス。不意打ちで苦しくて、気が遠くなりそうだけど、
もし、このまま死んでしまうなら、あと10秒だけこの時間を伸ばして欲しい―。
と、案外冷静な自分がいたりもする。
初めて彼から与えられたものは、苦くて苦しくて、温かかった。

冷静さを無くしてしまったのは、水瀬の方だった。
彼は紗夜が苦しげに息をもらす間も、執拗に彼女を侵略した。
まるで・・・ずっと隠していた気持ちを崩壊させたように。

「もう、知らない」

水瀬は、紗夜の耳元で囁いだ。
その声は掠れていて、心の内側から、ぞくっとさせる。

「・・・水瀬さん・・・?」
「崩壊させたのはおまえだ」
「んん・・?み、なせさん」
「自分で煽っといて今更引くなよ」
「ひ、引いてないです!むしろ・・ドキドキしすぎて死にそうですけど」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ふ・・あははは」

ムキになって顔を赤める紗夜に、水瀬は笑い出した。
今まで見たことない笑顔。子供が無邪気に笑うような顔が広がっていく。
この人もこんな風に笑うことがあるんだ・・・・。
1年半、毎日一緒に仕事してきて、初めて見たよ・・・。

「送っていく、乗れよ」

水瀬が車のドアを開けて、紗夜を助手席へ座らした。
何度も見たことある車だけど、中に乗ったのは初めてのこと。車内は彼の匂いがした。
バーバリーのsport for men。無造作に置かれた香水のボトルは、紛れもなく彼の匂い。
彼が普段、人を寄せ付けないプライベートゾーンに入った気がして、嬉しいような恥ずかしさが胸を燻った。

「紅茶でいいよな?」

コイン精算機から戻ってきた水瀬は、ミルクティーのホット缶を紗夜に手渡した。
紗夜がいつも好き好んで飲んでいるやつだ。

「ありがとうございます・・わぁ、これ、」
「ああ、好きなんだろ?お前は何でも固着するタイプだからな」
「え?固着?」
「年期の入った携帯、いつも同じ髪型、昼の定食はBランチ、それからいつも食後に飲むのがその紅茶」

み・・・・見てたんかいっ!
紗夜は思わず仰け反って水瀬を見つめた。彼はというと目を細めた後、何気ない表情で車をスタートさせた。
私に興味がないフリして・・・そんな細かいところまで見てたとは・・・。
固着する、と言われるまで気がつかなかったけど、確かに紗夜は1度気に入ったモノはとことん使うタイプだ。
好きな洋服、好きな音楽、好きな映画、好きな食べ物、好きな人も、然り。

「別にお前をじっと見てるわけじゃない、誰かさんと違って俺はストーカーじゃないんでね」
「ひ、ひっどい、それって私の事を言ってます?」
「他に誰がいるんだ」

言葉こそ素っ気ないけど、水瀬は今、紗夜の好きな微笑を浮かべた顔をしていた。
その横顔を見れただけでお腹いっぱいな気分になるが、聞きたいことは山ほどある。

「水瀬さんは、私に興味がないのかと思いました」
「・・・そんな風に思ってたのか?」
「そりゃ思うでしょ?あんだけ振られたんだから。おかげですごくメンタルを鍛えられましたけど」
「好きか嫌いか、興味があるかないか、そんな感情だけで括られるほど人間関係は簡単じゃないだろ?」
「う?うーん・・・?」
「難しいか?お前の気持ちには答えられないけど、興味はあるってことだ」

・・・・・?
あれ?私、また振られた?私、今、振られましたよね?
つまり、あれかな?ペットショップで動物を見て可愛いと思うけど、連れて帰ってまで飼いたくない。
でも、他の人に飼われるのは嫌だから、ついつい見に行ってしまう・・・・。
そんな感じ?

でも、キス・・・。
あんなキスをされたら、好きなんだもん、ドキドキするのが当たり前で、さらに胸が痛くなってしまう。
好きなら付き合いたいって思うのは自然なことだし、それ以上を望んでしまう。
彼が他の誰かのものになってしまうのは嫌だし、正直、仕事で他の女子社員と話しているだけでも嫉妬しちゃうのに。

そういうところがずるいよ。
望みがないならいっそ切り捨ててくれたらどんなに楽か。

「着いたぞ」

ギギ・・と鈍いサイドブレーキの音がして、水瀬が車を停車させた。
駅から少し離れた住宅街にある3階建てのマンションの前で、コンクリートの打ちっぱなしの外観がお洒落なデザイナーズマンションだ。

「え!なんで私の家を知ってるんですか!」
「・・・覚えてないのか?」
「へ?なんのこと?」
「ったく、前に自分で言ってただろ、駅から徒歩10分で便利が悪い、でも隣はコンビニだし斜め前に銭湯があるから気に入ってる、
マンションは3階建てだけど広くて新しい。家賃は高いけど友達とシェアしてるから大丈夫だって」

・・・・・!!
その・・・以前、ペラっとしゃべった情報だけで、自宅を割り出したの!?

「水瀬さん、探偵になれますよ」
「あのな、そんだけ情報があれば誰だって調べれば分かる」
「・・・調べたんですか?」
「・・・・・」
「え、あの・・」
「・・・・・・いつまで路道駐車させる気だ?さっさと降りろ」

つくづく、水瀬貴志という男が分からない。
冷たいかと思えば温かい、素っ気ないかと思えば優しい、無関心かと思えば、興味があると云うし、
そして彼は今・・・・照れている。

ああ、もう。
お願いだから、これ以上、好きって気持ちを助長させないで。
心が砕けてしまう前に。
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