報われない恋だと知っていても

03.シフトシェンジ

「旨い」
「ありがとうございます」

趣味の悪い専用湯呑に入ったお茶を一口飲んで、沖田部長が頷きながらニヤっと笑う。
紗夜がこの会社に就職して以来、毎朝、続けられている慣例業務。部長のお茶を淹れること。
今の時代、パワハラとも取られかねない古臭い仕来りだが、これで部長の機嫌が良くなるので、まぁ、いいかと思う。
もちろん、雑巾の絞り汁を入れる、なんてこれまた古臭い嫌がらせはしない。
誠心誠意、心を込めて淹れたお茶だ。
・・・けど。

「君はお茶を淹れるのだけは、上手だよね〜・・」

と、毎度、嫌味を付けられるたびに、明日こそ雑巾を用意しておこうと思う。


あの日もいつものように部長にお茶を淹れ、自分のデスクへ向かった時に電話が鳴っているのに気がついた。
内線ではなく、外線。
紗夜はほんの少し嫌な予感を感じながら、電話を取るとそれは予感以上に最悪なものだった。

部署内始まって以来の大失態、クレームの嵐の始まり。
ほんのりとしていた朝の雰囲気を一変させる電話を切ってから、修羅場のような1日が始まった。
再三掛かってくるクレームの電話、上司の怒号、フロア内を社員が走り回る足音。
目まぐるしく動く同僚達を横目に、要領を掴めず呆気に取られ立ち尽くす紗夜に先輩の江夏が大声を張り上げた。

「高木!ちょっとこっちに来てくれ!」
「あ、はい」
「俺は今から得意先に行ってくるから、悪いけど、昼の会議の資料を大至急作ってくれないか?」
「え!?資料ですか?」
「ああ、必要なものはそこのUSBメモリに入れてあるから、それで会議にも出てくれ」
「でも、先輩、私、会議なんて出たことないし・・資料だってちゃんと作れるかどうか・・」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ!とにかく頼んだぞ!」

江夏は早口で言うと、紗夜の肩を軽く叩いてフロアを出て行った。

嘘でしょ・・・
私が会議に?どどどどーしよー

紗夜は半ば泣きそうになりながら、取り敢えず江夏が言い残したUSBメモリをパソコンに差し込んだ。
ディスクを開くと、ずらっと並んだファイル。
これのどれが必要で、どれが要らないものなのか分からない。
今まで江夏の下に付いて仕事をしていたが、そのほとんどが雑用であったため彼が作っているファイルの中身など知りもしなかった。
酷いよ、江夏さん・・・
これで、どうやって資料を作って会議に出ろというのよ・・・

フロア内は相変わらず殺伐としていて、どの社員も顔色を変えて仕事に取り掛かっている。
嫌味な沖田部長に泣きつこうかとも思ったが、彼は今世紀最大の不機嫌顔でデスクに向かい何か書物をしていた。
紗夜が今朝淹れたお茶は、デスクの端で冷たくなっている。

ダメだー
今、部長に言ったら逆に怒られるに決まってる・・・。
誰か助けてくれそうな人・・・・って、誰もいないー!江夏のばかやろうー!

紗夜は、この降って沸いてきた災難を恨めしく思うと同時に自分の不運さにもうんざりした。
そしてその原因を作った先輩の江夏にも心の中で悪態をつく。
どうして昨日のうちの資料を作っておかないのよ、どうしてアンタが現場に行かなきゃいけないのよ、
なんで私が後を引き継がなくちゃいけないのよー。

「君・・何してる?」

心の中で思いつくだけの文句を言いながらUSBメモリのファイルをひとつひとつ確認していた紗夜は、不意に掛けられた声に顔を上げた。
そしてその声の主を見て、吃驚する。

え、うそ・・・・

「今の状況は?説明してくれると有難いんだけど」
「え?えっと・・・」

待って、理解できない。
えええ?どうやってここに入ってきたの?
うちの会社、セキュリティーだけは厳しいのに。

「俺の話、聞いてる?説明して」
「あ、はい。○○会社から発注ミスのクレームが入りまして・・」
「発注ミス?それだけでこの騒ぎか?」
「いえ、桁が全然違っていたんです、それで他のメーカさんにもとばっちりをかけちゃいまして・・」
「そうか、それで、君は何を?」

あれ?なんか普通に仕事の話をしてる・・・
なんでこんなことを聞いてくるんだろう?
って、いうか・・・彼、気がついてない!?

「先輩がお得意先へお詫びしに行ったので、代わりに午後の会議の資料作りを・・・」
「そう、状況は分かった。ありがとう」
「あ、待って・・」
「何?」
「あの・・・・・」

藁にも縋る思い、とはこの事をいうのだろう。
紗夜は直感で、「今、この状況」を助けてくれるのは、彼しかいないと思った。
簡潔に説明する紗夜の話を聞いて、彼は即座に「江夏に電話しろ」と云う。
得意先を訪問中の彼に電話するのは悪いと思ったが、「構わず掛けろ」と云う彼の指示に従った。

紗夜が江夏に電話している間、彼は先ほどまで紗夜が触っていたパソコンのキーボードを幾つか叩いた。
フォルダ分けしたファイルから必要そうなものだけ選んでいく。
そうしているうちに江夏と繋がった電話を彼に渡した。

そこからは目を見張る速さで資料を作り上げプリントアウトし、コピーしてくるように紗夜に指示した。
必要部数用意した紗夜が戻ってくると、今度は会議に必要な要点を説明していく。
それはとても簡潔で分かりやすく、午後の会議までに何とか間に合った。

「ありがとうございます!助かりました」

紗夜は彼に頭を下げてお礼を云った。
思わぬ救世主だったが、その効果は抜群で会議でも褒めてもらえるという副産物付きだった。

「いや、間に合って良かったな」
「いえ・・・・あの・・でも・・どうしてここに・・・」
「高木ー!!!」

紗夜の質問は、得意先から戻ってきた江夏の声でかき消された。
彼は満面の笑みを浮かべ、彼女の傍にやってくると頭をクシャクシャを撫で付けた。

「お前、よくやったな!さっき下で課長に会ったけど、えらい褒めてたぞ」
「もー先輩・・・大変だったんだから」
「ところで、電話で話した人は誰だ?知らない声だったけど?」
「あ、それはこちらの・・・えっと」

紗夜は隣に立っている彼を見上げ紹介しようとして、あれ、と思う。
そういえば、なんで彼がここにいるの?
それに、名前知らないや・・・彼・・・彼はこの前、BARで出会った人よね?

そんな紗夜の心中を無視して江夏は人懐っこい笑顔を彼に向けた。

「あ〜、もしかして、さっきの電話の人っすか?」
「ああ」
「俺、江夏俊太っていいます、あの〜・・」
「水瀬貴志だ」
「水瀬さんっすか。さっきは助かりましたよ〜こいつ(紗夜)じゃ、心配だったけど、そういも言ってられない状況で・・
あ〜でも良かった。無事に終わって・・あはは」
「・・・ふざけるな」
「へ?」
「ふざけるなって云ってるんだ。今度、こんな無責任な仕事の仕方をしたら左遷してやるから覚悟しとけ」
「はぁ〜?なんっすか、あんた」

江夏の額に青筋が浮き上がる。
彼が「俺様」主義で喧嘩っぱやい性格なのを知っている紗夜は、ハラハラとして2人の様子を眺めた。
一方で、水瀬は冷めた目つきで江夏を見据えている。

「あ〜水瀬くん、今日づけだったかな?」

険悪な雰囲気を打ち消したのは、沖田部長だった。
慌ただしいクレーム処理がひと段落して、ほっとしたのか首を回しながら紗夜たちに近づいて来た。

「はい、今日からお世話になります」
「うん、うん、よく来たね、あ、紹介するよ、今日から私の補佐をしてもらう水瀬くんだ。君たちの直属の上司になるわけだから、彼のいう事をよく聞くように」

直属の上司ー!?彼が!?
って、うそ、これ偶然?いや、運命?

一目惚れした相手との運命の再会。
こんなシチュエーションなら、誰だって勘違いするでしょ?
走り出した恋は止まらないって言うじゃない?

よろしく、と他の社員たちにも挨拶をする彼の横顔を眺めながら、紗夜の気持ちは走り出していた。
それは、「GAME」から「本気」にシフトチェンジした瞬間だった。
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